オルガニスト楽屋話

第112話  ポーランドへの一人旅 ---2010.8.4.

演奏旅行で渡欧というのに出発2日前にまさかの発熱。数年来、寒い冬も風邪などひくことすらなかった私が夏風邪でダウン。茹だるような猛暑、エアコンの下で眠り、体が冷えてしまったようだ。 暑い中、教会での練習も厳しく、自宅の電子オルガンでの練習時間に切り替えたせいで、経験したこともない腱鞘炎になりかけた。はらはらしたが、出発の朝は体も手も 復帰。無事成田に着き、チェックインをと思いきや、大変だ〜、持って来たはずのファイルがない、、重要な書類やメモが記されたファイルを自宅のパソコンの横に忘れた。 Eチケット(航空券)、招聘先からのinvitation letter、2つの地のマネージャーさんの名前、住所、連絡先、携帯電話、宿泊先、ホテルの住所、 前夜に旅程など確認したのが災いだった。仕方ない、まあ何とかなるだろうと太っ腹になることに、チェックインは出来、出発。

留学時、成田でのことを思い出す。両親と友人達が見送りに。初めてのヨーロッパへスーツケースひとつで飛び立った。 夢と希望、嬉しさと喜びでいっぱいな私は、寂しげな両親とは裏腹に、何の心配も不安もなかった、あれは怖いもの知らずの若さだった。 久しぶりの一人旅、早速忘れものはするし、どうなることかと今回は不安や心配ばかり、、これも年のせいかと思う。

乗り換え地であるフランクフルトは24度、晴れていたが、東京の猛暑から来た私には肌寒い。 小型の飛行機に乗り換え、雨のクラコフはさらに気温が低く、到着したのは夜8時、 現地マネージャーの女性ドロータさんと、ドライバーさんと英語の達者な(通訳?)男性の3人が「Keiko Inoue」という紙を持って出迎えてくれた。 メールや手紙のやりとりをしていた人と無事会うことも出来、ネットで調べた情報などが次々と“現実”になっていく。 クラコフでの宿泊は音楽アカデミーの最上階にあるゲストルーム。街の中心にあり、毎時トランペットが吹かれる クラコフのシンボル的な聖マリア教会が見える眺めの良い部屋に着いたのは、 雨の夜、自宅から約20時間の旅だった。明日教会へ案内してくれると約束をし、今日はまず休むことに。

15年前にこの街で演奏した。今回はその音楽祭の第20回目、それを記念しこれまで演奏したオルガニストから印象深い奏者(←これは招聘者からのお招きの言葉でした)が招待された。 まさかあの時、この地を再び訪れる機会がくるとは思わなかった。ありがたい。

教会へは徒歩で15分(と言われたが、私の足では30分)、 旧市街を囲むグリーンベルト状の公園を通り、 ヴァヴェル城の先、ヴィスワ川沿いの閑静な場所に建つバロック教会へ案内され、リハーサルは始まった。 柔らかい響きの美しいバロックオルガンで、残響のある教会での演奏は、魚が水に帰ったような気分に。 響きにあった演奏を模索しながら、そして楽しみながらのリハーサル。

リハーサルの帰りは街歩きをしたくなり、行きに教えてもらった道を通らずに帰って来た。 無事に宿泊先へは戻ったものの、翌日練習に向かう時は、道に迷うことに。 グリ−ンベルト状に街を囲む公園は方向感覚がなくなる。全く違う方向にある中央駅が現れ、あわてて逆方向だ!と戻ったが、昨日教えてもらった道ではない、見覚えも無い場所ばかり。 何度か道を尋ねたものの、教えてもらった方向へ歩けば歩く程、ますます方向違いなのかわからなくなり、ひどい雨も降って来た、、 リハーサル時間まであと5分、遅れてしまう、、仕方ない、タクシーを拾い、教会へ。全く方角違いにいた私は、あの時タクシーを拾わなかったら永遠?教会には行き着けなかっただろう。 クラコフは雨、それもどしゃぶりのひどい雨が続き、気温も15度前後、水はけの悪い石畳の道を歩くのは大変で、サンダルなど予想違いの荷物で来てしまった私はレインブーツと厚手のコート丈のセーターを調達。 レインブーツを探しに、駅に隣接する大きなショッピングモールへ行けば早いだろうと歩いていくと、駅前の屋台はどこもレインブーツと傘を 並べていた(笑)。

コンサートの前日、宿舎に戻ると「手紙が届いています」と、、。ポーランド人から「コンサートのご成功をお祈りしています」という奇麗なカードと名刺が。 手紙をもらうような知り合いのポーランド人などいるわけもなく、何だろう〜と。さらに驚いたことには現金700ゾルチ、おしゃれなカフェのビールやコーヒーが10ゾルチ、ここの国では大金が封筒に 入っていた。 約束した出演料の先払い、いや違う、、翌日コンサートの折に話を聞きわかったのだが、クラコフと京都は姉妹都市(どちらも昔、首都として栄えた古都)で、 文化交流基金のような団体から補助金がおりたというのだ。思いがげないプレゼントをいただくことに。

様々な失敗あり、ハプニングもあったものの、本番の時刻には連日降り続いていた雨も上がり快晴に(午後8時だが明るい)、 そして歴史的な教会での演奏会は多くの聴衆から暖かい拍手をいただき無事終わった。しかしのんびりもしていられない。

翌日はバスで2時間、110キロ離れたノヴィ・ソンチという街で次の演奏会。 ポーランド人は純朴でとても優しい。 言葉は通じないが、暖かいハート “心”をそれ以上に感じる。 しかしながら、真面目さからか笑顔や微笑みはない。 例えばお店に入っても、挨拶もなく、無表情。 2つ目の演奏会、マネージャーのミラさんから「演奏の後は教会の下へ降りて来て、皆様の前に挨拶してくださいね」、と。え?、 この長く細い階段を演奏後に駆け下りる、しかもオルガンバルコニーの扉と教会の入り口は別なので、 一旦外を歩かなければならない(オルガンシューズのままで外を歩く〜?)。日本のコンサートホールのオルガンとステージの距離なんていうものではない。 それでも言われた通り演奏後、急いで階段へと向かうと、一人がやっと通れる石の細い階段にサインを求める大きく太ったおじさまが現れていた! 「ごめんなさい!、急いで下に行かなければならないのです」 やっとも思いで通してもらい、暗く細い石の階段を駆け下りる。満席の教会、大きな拍手、皆はスタンディングオベーション、 大きな拍手で迎えてくれ、私は教会の正面へ。お花をいただき、 大きな拍手をいただいた。そして皆が私に微笑みかけてくれた!“笑顔”!! 無表情だと思ったポーランドの人々が”笑顔”になった。嬉しかった、最高の幸せを感じた私だった。
(右の写真は、マネージャーのミラさんと。お世話になり、またすっかり意気投合した。)

その後、サインを求める人に囲まれる。思いもよらなかったことに。しかし、私はパスポート、出演料など貴重品全てをオルガンバルコニーに放置してきたことに気づく。 まさか、盗難にあうとは思わないけれど、いま戻る訳にもいかない、、、ひやひやしながら、大勢のサインの列に答える私。

翌朝ノヴィ・ソンチから再びクラコフへ戻った。新市街に入ると一昨日に終わった私の演奏会のポスターが目に飛び込んで来た。 KEIKO INOUE (Japonia Tokio)。

「一人旅」では無かった!、多くの人に支えられての私がいることを思った。 見知らぬ地、言葉の通じない国で一人での食事、宿泊、移動、、恐らく普通の人ならばめげるようなことかもしれないが、そうしたことも差し引いても 滅多に得られないような幸せで充実した1週間だった。ホットなポーランドの人々の心を再び感じた。ありがとう、ポーランド!クラコフとノヴィ・ソンチ、素晴らしい街だった、 また訪れる機会があることを夢見よう、 そんな思いを残しクラコフを後にした。

(ポーランドでの写真はこちらのページです。)


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